赤幡神社(あかはた)
福山市沼隈町中山南 平家谷
福山市沼隈町中山南平家谷に鎮座する。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏の軍勢が、西に落ちていく途中で八日間立ち寄ったとされる八日谷地区をすぎ、さらに奥へと車を走らす。
すると右手に注連縄に赤い御幣が付けられた神社が見えてきた。
赤幡神社だ。
平安時代の末期、養和元年(1181年)8月から、源氏と平氏は総力を挙げ一進一退の戦いを繰り広げた。
越前の戦いで源氏軍に勝利を収めた平通盛は3万の兵を率いて能登へ向かう。
しかし、平氏の主力部隊は寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで破れてしまったために、平氏は京都から撤退を余儀なくされた。
この時平氏は、二歳で即位し五歳になったばかりの安徳天皇を連れ、三種の神器と共に都落ちした。
通盛は寿永2年(1183年)備中水島の戦いに従軍、翌年の神戸一ノ谷の戦いで討たれてついに死んでしまう。
妻である小宰相の局(こざいしょうのつぼね)も後を追って入水した。
大方の武将を失った平氏は西へ敗走。
福岡県太宰府から向きを変えて香川県高松市沖の屋島(やしま)に本拠地を置いたが、1185年(元暦2年/寿永4年)2月、屋島の戦いでも敗れ、最終決戦場、壇ノ浦へと向かうのである。
1185年、壇ノ浦で平氏と源氏が激突。
平氏軍は敗北。安徳天皇は入水し、8歳で崩御。
現在は「耳なし芳一」と共に赤間神宮に祀られている。

一ノ谷で討たれたとされる平通盛だが、この沼隈町中山南平家谷に通盛と小宰相の局、それに侍従達の伝承が残っている。
赤幡神社には、通盛が残した平氏の赤旗が祀られたとされている。
通盛が能登守だったことから、能登原という地名が付いた。
各地に平氏落人伝説があるが、三原市には平家八幡宮というのがある。
八幡神は源氏の守護神とし、宇佐から京都男山(石清水)に勧請され、源氏の行く先々に八幡神社が建立された。
この平家八幡宮は、落ちた平氏が源氏の目から逃れるために泣く泣く創祀したとされる。
八幡神の総本社は宇佐であるが、宇佐ではなく京都男山から勧請し建立した八幡神社は、源氏の武運にあやかろうと、その地の武将が建てた神社と思って間違いない。
拝殿
本殿

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