今伊勢宮(いまいせぐう)
福山市神村町
今伊勢宮(いまいせぐう)福山市神村町に鎮座する。

第10代崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)」が、父の命で天照大神を祀る鎮座地を捜して大神のご神体である「鏡」を持って旅に出た。
その行程は第11代垂仁天皇の皇女「倭姫(やまとひめ)」に引き継がれ、60年もの長きに渡った旅は、伊勢が終焉の地となった。
これが伊勢神宮内宮の縁起である。
奈良を出発し京都、和歌山、そして吉備国に入り「名方濱宮」には四年間滞在したとされる。
その「名方濱宮」の旧跡に神村町今伊勢宮は鎮座したとある。
鎮座した山はアマテラスのご神体にちなみ鏡山といわれ、その地名は神村という。
しかし、一般的には「名方濱宮」は岡山県岡山市番町に鎮座する式内社「伊勢神社」に比定され、元伊勢と称されている。
伊勢神宮よりも創祀は古いのだ。
アマテラスは倭姫により伊勢内宮に鎮座後、第21代雄略天皇の夢枕にアマテラスが現れ「一人では寂しくて食事が出来ないので丹波国にいる豊受大神(とようけおおかみ)をここへ連れてきてくれ」と頼んだ。
そこで豊受大神を丹波から伊勢へ遷座させ建立したのが外宮である。
豊受大神は、アマテラスの食べる食物のことをを御饌(みけ)というが、その「みけ」を司る女神で、稲荷神「宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)」と同じ農業穀物神だ。

ここ神村町今伊勢宮にも伊勢神宮と同様に内宮と外宮がある。
参道は旧国道から南に延びるが、途中を国道2号が横切り、さらに山陽本線も横切る。
踏切を渡り、一段上がったところに県社の石柱があった。
もう少し上がると左手に外宮の拝殿が西向きに建つ。
奥には全体的には神明造りの社殿なのだが、屋根だけを流造りにした三間社の本殿がある。
祭神は豊受大神だ。
そこから上の内宮に向け長い石段が続く。
内宮本殿は立派な三間社神明造りであった。
祭神は天照大神。
大正八年に再建された切り妻平入りの両側面には独立した棟持柱を備え、柱の上の組物は一切備えていない。
破風板には四本ずつの鞭懸(むちかけ)が付き、その破風板を上に延長して交差させ、その内側を削いで千木を造る。
鰹木は全部で六本付いていた。
広島県神社建築によると、「この内宮本殿は広島県では最大級の規模であり、本格的な神明造りとして注目に値する。
また、外宮の神明造りと流造りを合わせた様式は他に例を見ない今伊勢外宮造りといえる」と記されている。
創祀が変わっている。
応永三十三年(1426年)堺の太夫さんが伊勢神宮にお詣りをしたところ「鳥居に5寸ほどの青石があるから持ち帰って祀れ」とご神託があった。
言われた通り堺に持ち帰って祀っていたら、今度は2年後「これを持って西へ向かえ」とのお告げがあった。
これに従った太夫さんは神村の地まで西進してきたが、ここで一歩も動けなくなったという。
この地が元伊勢だったというのだ。
そこで、その青石をここに祀ったのが今伊勢宮外宮で、それは応永三十五年(1428年)のこととされる。
内宮の造営は翌正長二年(1429年)とある。
青石は豊受大神だったのだろうか?以後、各領主から厚遇を受けている。
創建当時の神村城主は野気治掃部頭で、鏡山の東西南北十九町歩を寄進したとある。
高須城主杉原朝臣政光も文安二年(1445年)に社殿を造営している。
毛利氏は永禄四年(1561年)三町歩あまりの田畑を寄進している。
しかし、福島正則に没収されて荒廃したらしいが、福島改易後、備後に入封した水野勝成は、元和八年(1622年)にまず内宮を修復、次いで寛永十一年(1634年)に外宮を修復、さらに寛永十三年(1636年)には再び内宮を修復している。
阿部時代の修理造営記録は残っていないが、度々参拝されたらしく、3代阿部正右、4代阿部正倫らが奉納した絵馬は現存している。
明治になっては今伊勢宮は祀りごとに関して式内社と同格として扱われた。
備陽六郡志には「社には三杉、四杉と称する七本の杉がある。
それは豊臣秀吉が九州下向の時にこの地で餅菓子を食した。
その時に使った杉楊枝七本を「みすき世すき」と唱えて地面に挿し置いたものが芽を出した」・・・そうだ。
参考 広島県神社誌、広島県神社建築、備後史談「今伊勢宮と領主の崇敬」湯川大三郎
「県社」の石柱
石鳥居
本殿

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