艮神社(うしとら) |
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福山市奈良津町 | |
艮神社(うしとら) 福山市奈良津町に鎮座する。
祭神は「吉備津彦命」だ。 「吉備津彦命」については非常に奥が深い。 たとえば、「大吉備津彦命」と「若建吉備津彦命」は第7代孝霊天皇の子どもで異母兄弟だ。 古事記には兄の「大吉備津彦命」は「ひこいさせりひこ」、またの名を「おおきびつひこ」、日本書紀には「ひこいさせりひこ」、またの名を「きびつひこ」と記されている。 一方、弟の「若建吉備津彦命」は古事記「わかひこたけきびつひこ」または「わかたけきびつひこ」、日本書紀には「わかたけひこ」と記されている。 吉備津彦命が有名になったのは四道将軍(しどうしょうぐん)として第10代崇神天皇の命により北陸、東海、西道、丹波に派遣された人物の一人で、吉備国を平定することに成功した。 そして、その足跡は西は尾道辺りまで残る。 吉備国は後の7世紀後半、備前、備中、備後、美作に分割された。 したがって、吉備国の中心だった備前、備中には吉備津彦命を祀った神社が多く存在する。 中でも有名なのは備中一ノ宮「吉備津神社」であろう。 備前一ノ宮は「吉備津彦神社」で、ここ備後一ノ宮は新市町に鎮座する「吉備津神社」は身近な存在だ。 備前一ノ宮、「吉備津彦神社」の祭神は「大吉備津彦命」備中一ノ宮「吉備津神社」も「大吉備津彦命」。 備後一ノ宮は備中一ノ宮から勧請し創建された神社であるから、こちらの祭神も当然「大吉備津彦命」が祀られている。 これらは四道将軍として派遣されたのは「大吉備津彦命」だったと言うことに繋がるが、これに異論を唱える人がいる。 岡本正人氏は著書「吉備津彦命の正体」で四道将軍として派遣されたのは「大吉備津彦命」ではなく異母弟の「若建吉備津彦命」だったと断定されている。 となると各一ノ宮の祭神は間違って祀っていると言うことになる。 断定に至った根拠は「若建吉備津彦命」とその孫、「吉備武彦命」、そして、その息子の「鴨別命」を祀った神社を徹底的に取材して調べた結果、「吉備平定の真相」と「吉備津彦命の正体」を解明することが出来たと記されている。 ここ福山市奈良津町に鎮座する艮神社の祭神は広島県神社誌には漠然と「吉備津彦命」と記されている。 伝承では吉備津彦がこの地を平定し、その功績をたたえ勧請したとされる。 ここ奈良津の地にも吉備津彦の足跡が残っているが、「大吉備津彦命」か「若建吉備津彦命」か、そのどちらなのかは私の手元の資料だけではまったく判断できない。 天文15年(1546)の古図にこの神社は記されている。 元和8年(1622)に本殿を改築。元和8年といえば福山城が建てられた年だ。 いま建つ本殿は明治24年に改築されたものだ。 ぽんぽこりんさんから、「福山の鬼門守護は北吉津の艮神社だとされているが、本当はここ奈良津の艮神社だ」という情報を頂きました。 福山市街地図で確認したところ、福山城から鬼門とされる北東の方角は言われた通り奈良津がピタリと一致し驚きました。 しかし、水野勝成により建てられた福山城の鬼門守護は北吉津とされているのは明らかです。 考え方としては福山城ではなく、広い意味で城下町福山の鬼門守護の任務があったのかも知れません。 |
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石鳥居と狛犬 | |
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拝殿 | |
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本殿 | |
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地図 |