艮神社(うしとら)
尾道市長江町
艮神社(うしとら) 尾道市長江町に鎮座する。

 備後には「艮」と称する神社が多い。
広島県内では特に東部地方、備後に集中し創祀されている。
吉備津彦を主祭神としている神社が圧倒的に多い が、一部に吉備津彦がはずされ、スサノオやイザナギ、イザナミを祀っているところもある。
本来「艮」とは丑(ウシ)と寅(トラ)という方角を表す。
真北 12時の方角を「子(ネ)」として、12時間に十二支を当てはめると3時が真東となり「卯(ウ)」が当たる。
「丑」は北北東、「寅」は東北東で、その中間 の北東方向が「丑寅(ウシトラ)」となり、陰陽道では、鬼が出入りする方角で、万事に忌むべき鬼門としている。
また、反対の南西(ヒツジサル)の方角を裏 鬼門としてこの方角も忌み嫌われる。
京都御所は北東方向にある比叡山に延暦寺を建て鬼門守護とし、また清和天皇は裏鬼門に宇佐から八幡神を勧請し守護神と した。
源氏の守護神石清水八幡宮がそれである。
福山城を建てた水野勝成は、福山城の鬼門守護にその方向に鎮座していた秋津洲神社を秋津艮大明神と改称しそ の任に当たらせた。
北吉津に鎮座する艮神社である。

 艮神社の祭神に吉備津彦が多いのはなぜだろうか。
吉備津彦といえば備中一宮の吉備津神社がその本社だ。
備前、備後にも分社されそれぞれ一宮とい う重責を担った。
本社の鎮座地である岡山に「艮」と称する神社はあるのか調べてみた。
浅口市鴨方町と里庄町に一座ずつ、笠岡市に2座、新見市哲西町に1座 あった。
艮御崎神社として岡山市辛川市場に1座、倉敷市真備町と高梁市備中町に1座ずつで、合計は8座ということになる。
備後地方に比べると明らかに少な い。
吉備津彦を祀る艮神社は、平安末期の後白川法皇編著の梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という歌集の一節に「一品聖霊吉備津宮 新宮本宮内の宮 隼人崎  北や南の神客人 艮みさきは恐ろしや」がある。
ここに出てくる「艮みさき」から神社名を当てたのが吉備津系「艮神社」または、「艮御崎神社」といえ、第 10代崇神天皇が四道将軍の一人として山陽道に派遣された五十狭芹彦(いさせりひこ)は吉備国を平定し吉備津彦を名乗った。
その吉備津彦の足跡が吉備津彦 系の艮神社にあるという。
一方で、吉備津彦をはずしたスサノオやイサナギ、イザナミを祀っている「艮神社」は吉備津彦とは関係が無く、何らかの鬼門守護を 担っているのではないだろうか。

 前置きが長くなったが、尾道千光寺ロープウェイの真下に鎮座する艮神社の祭神はイザナギ、スサノオ、アマテラスと、吉備津彦も祀られている。
旧 称は「丑寅宮」であるからどちらかといえば鬼門守護神として創祀されたのではないか。
広島県神社誌には、創建は大同元年(806)で、文明7年 (1475)平盛祐が願主となって再建され、以後度々社殿の造営があったことが棟札により知れるとしか記されていない。
吉備津彦の足跡がここにも残ってい るのだろうか。
境内には県の天然記念物に指定された大きな4本の楠があり、神社の古さを証明している。

 尾道市土堂町に「べっちゃ祭」で有名な吉備津彦神社がある。
もともと尾道一宮として吉備津彦を祀っていたが境内が狭かったために宝土寺境内に遷 座させていた。
小早川隆景も祈願所とするなど繁栄していたが、明治の神仏分離令で吉備津彦のご神体は艮神社に奉遷を余儀なくされた。
艮神社の祭神に吉備津 彦が加わった理由はこれで判明した。
その後、宝土寺に遷る前の旧社地の寄付があり、明治12年に社殿を造営し吉備津彦を復座させている。
吉備を平定した吉備津彦の足跡の西限は尾道辺りで、それを裏付けるように艮神社を含む吉備津系神社は分布する。

 艮神社を訪ねた。
石鳥居をくぐり先に進むと千光寺ロープウェイの真下に唐門は建つ。
その先に妻入り切妻造に切妻の向拝を持つ大きな拝殿が見えて くる。
右側には大きな楠がそびえ立つ。
奥の本殿は三間社の神明造で、正規の棟持柱とムチ掛けを持つ。
本殿と拝殿大棟の千木は内削ぎだが、拝殿向拝屋根と唐 門に置かれた千木は外削ぎであった。
石鳥居
拝殿
本殿
唐門

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