艮神社(うしとら)
府中市父石町神田
艮神社(うしとら)府中市父石町神田に鎮座する。

この神社の縁起は南北朝にまで遡る。
後嵯峨天皇の後、天皇家は皇位継承を巡って乱れる。
後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞らとともに鎌倉幕府を滅ぼ し、建武の新政と呼ばれる独裁政治を行うが尊氏は離反してしまう。
後醍醐天皇は新田義貞らに尊氏討伐を命じた。
これに敗れた尊氏は九州で勢力を立て直し反 後醍醐の光厳天皇を立て京都を目指す。
後醍醐天皇側には新田義貞・楠木正成らがいたが今度は尊氏の軍に敗れてしまう。
尊氏は反後醍醐である光明天皇を擁立 して、建武式目を制定し幕府を開いた。
これが北朝と称される。
一方、後醍醐天皇は吉野に南朝を開いた。
これを南北朝と称し、関東から九州まで、各地で戦い が繰り広げられた時代だ。
鞆の小烏神社も戦いの場となった。
戦いは圧倒的に北朝が有利で、南朝方の名のある武将達は次々と戦死した。
備後では 南朝方に付いた桜山四郎が楠木正成に同調し出兵したが、正成は1336年兵庫県神戸市「湊川の戦い」で足利直義軍に敗れて戦死。
桜山も備後一宮吉備津神社 の社殿に火を放ち自害した。
この桜山四郎とともに南朝に属してたのがこの艮神社神主父石政真で、父石政真も父石神田の地で一族と共に自害したとされる。
南 朝は潰れ、以降、足利氏による室町幕府が信長が現れるまで続いたのだ。
祭神は吉備津彦。
桜山のいた吉備津神社から勧請したと想像できる。
その後、享保九年 (1724年)に本殿を再建したとある。
旧本殿が現在は拝殿として使われ、その後ろに神明造風の本殿が建てられている。
拝殿は旧本殿が使われ三間社入母屋 造で軒唐破風向拝が付く。
両翼の反り上がりが凄い。
本殿は三間社神明造・・・風。
切り妻平入りで神明造りの特徴である棟持柱は写真で確認できるが、どうい う訳か棟に千木と鰹木が無い。
多くの境内社が祀られている中で沢淵神社というのが目に付いた。
その祭神「瀬織津姫(せおりつひめ)」なる女性の素性がはっ きりしない。
歴史から抹殺された女神ともいえる。
「ホツマツタヘ」はアマテラスは男神でセオリツヒメはそのアマテラスのお后だというのだ。
この項について はまた改めて紹介したい。

拝殿
本殿
神楽殿

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