式内社 備後国御調郡 「加羅加波神社(からかわ)」
三原市中之町
この神社は「備後国御調郡一座 小 加羅加波神社」と延喜式神名帳に記載された式内社だ。
祭神は、境内の由緒書には太玉命(ふとだま)、天鈿女命(あまのうずめ)、瀬織津比売命(せおりつひめ)の三柱が記されていたが、広島県神社誌には、天照大御神・素盞嗚尊・豊受比売命を主祭神とし、上記三柱の神々は、相殿神として記されている。
神社に伝わる古文書類は一切無く、縁起等を探るには江戸時代文政8年(1825)に著された「芸藩通志」辺りを参照するしか方法はない。
それによると式内「加羅加波神社」は「御調郡山中村の内、加羅加波谷にあり」とある。
山中村は現在の中之町だから所在地に異論はない。
御調郡の一宮に定められ、朝廷から出された幣帛は備後国に赴任する国司に託され、国司が直接持参した。
明治以降は御調郡(尾道、三原、因島)唯一の郷社に格付けされ崇敬されたとある。
創祀は推理するしかないが2説あり、1つは現在この付近の地名は干川(からかわ)と称されているが、これは現在の和久原川の旧称でこれに由来する説と、「干」は「唐」で帰化系の神社とする説であるが、志賀剛氏は著書「式内社の研究」の中で、この帰化系説は否定されている。
いずれにしてもこの神社以外には考えられないとされる。
奈良時代に和気清麻呂の姉で和気広虫(わけのひろむし)がこの地に流され、宇佐から八幡神を勧請し創始したとされる御調八幡宮が北側の龍王山を越えた辺りにあり、こちらの伝承には法均尼(和気広虫)は備後に流されたときに、「平城京を発ち、瀬戸内海を船で進み備後柞原郷に着き、加羅河御廟に奉拝したのちに御調坂(三戸坂、みとさか)を越えた」と記されているように御調八幡宮より以前にこの地に賀羅加波神社はすでに鎮座していた証拠がここにある。

社殿であるが、本殿の建立年は不明。
一間社流造で、三方に廻縁が造られ、奥は脇障子で止まる。
屋根は銅板葺き。
妻側は虹梁大瓶束が棟木を支える。
屋根には両端と、さらに中央部にも千木、勝男木がセットで置かれる。
大正12年に造営された拝殿は立派な造りだ。
三間社で大型な平入りの入母屋造には正面に千鳥破風を備え、前方一間分は吹き放ちの外陣となる。
向拝は大型の軒唐破風造りだ。
拝殿の裏側は幣殿が建ち、その屋根は拝殿に接続されている。
三棟とも銅板葺きの屋根だが、本殿のだけが緑青色が強く出て、拝殿、幣殿よりは古いことがわかる。
神紋は折敷(おしき)に三階菱(さんかいびし)で、幟や本殿に施されていた。
参道入り口に何故か鳥居が見えない。
本殿を一周すると、本殿横に無惨に折れて倒れた石鳥居の残骸があった。

参考
式内社調査報告、式内社の研究、広島県神社誌
拝殿
本殿
石碑

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