皇森神社(こうもり) |
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福山市内海町田島 | |
皇森神社(こうもり) 福山市内海町田島に鎮座する。
神武天皇東征。 南九州の高千穂峰に天孫降臨した皇祖神は、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)の時代に、日向(ひむか)からヤマトを目指し東進を開始した。 まず、筑紫国菟狭(大分県宇佐)に立ち寄り、岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町)からヤマトを目指す。 途中、豊浦宮(山口県)から古事記では安芸国埃宮(えのみや)に7年。 吉備高島宮に8年間滞在し軍備を整えた。 高島宮を出発した神日本磐余彦一行は瀬戸内海を進みいよいよ難波に上陸しヤマトを目指し長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と戦った。 神日本磐余彦側も三人の兄が戦死したが、これを打ち破り畝傍の橿原宮で即位し初代神武天皇となった。 これが神武天皇の東征物語である。 8年間滞在したとされる吉備高島宮はどこなのだろうか。 備後にはその伝承地が数ある。 中でも有力とされたのは福山市田尻町高島で、この地には田尻八幡神社が鎮座している。 ここで紹介する田島、皇森神社もその伝承が残る。 元禄年中(1688−1704)の御図帳には「吉備高島宮なり」とある。 神武天皇の即位した年を紀元前660年に決め、これを皇紀元年とした。 皇紀2,600年(西暦プラス660年で昭和15年、1940)を記念して、日本では万国博覧会と東京オリンピックを誘致していたが、第2次世界大戦の影響で二つとも中止された。 国内では各地に史跡が比定され、吉備高島宮址もいずれかと激論が繰り広げられた。 備後を代表しては郷土史家濱本鶴賓氏を中心に田尻を以て国に答申したが、残念ながら岡山県児島に浮かぶ高島が決定されてしまった。 これには訳があり、安芸埃宮は広島県府中町に鎮座する多家神社が比定された。 考証では田尻が断然有利であったが、ここが比定されれば広島県で二カ所目となる。 始めから一県一所原理があったらしく、高島宮は岡山県に譲った形となった。 真っ向から本気で論戦を展開した濱本鶴賓氏は、高島という以外根拠のない場所が比定されたことについて、備後史談内で憤りを書かれている。 田尻八幡神社には「吉備高島宮址」の石柱が建ち、ここ皇森神社にも昭和10年に「吉備高島宮址」の石柱が建てられ、それを証明するように祭神は神武天皇が祀られる。 本殿は1間社入母屋造で、桟瓦葺き屋根。 広島県神社誌には千鳥破風付きと記されているが、これは撤去されていた。 妻飾りは虹梁大瓶束。 宝暦11年(1761)に建てられた社殿は明治13年に改築され、屋根部分は最近になって改修されていた。 天孫降臨の地は南九州高千穂峰とされているが、大橋蛍火氏は自著の中で山陰説を唱えられていて、興味深い。 |
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参道石鳥居 文政3年(1820)9月の刻印があった | |
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拝殿 | |
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本殿 | |
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地図 |