金比羅神社(こんぴら)
府中市府中町
金比羅神社(こんぴら) 府中市府中町に鎮座する。

広島県神社誌には「こんぴら」の「ぴ」の漢字は「刀」の下に「比」を書いて一字を作る。
本社である讃岐こんぴらさんは金刀比羅宮(ことひらぐう)と称し、主祭神に大物主神を祀る。
永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀している。
崇徳天皇は鳥羽天皇を父に持つ第75代の天皇だ。
しかし、永治元年(1141)鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させ、崇徳天皇の弟を即位させた。
第76代近衛天皇である。
久寿2年(1155)に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇(天皇を退くと上皇になる)は自分の子どもの即位を望むが、鳥羽法皇(上皇は法王となる)はこれを認めず崇徳上皇のもう一人の弟を第77代後白河天皇として即位させた。
自らも退位させられ、今度は自分の子もないがしろにされた崇徳上皇の怒りはついに沸点を超えてしまう。
阻害された理由は、崇徳は鳥羽の実子ではなかったとか色々といわれているが真相はいかなるものだったのか。
鳥羽法王が亡くなるとついに崇徳上皇と後白河天皇は激突した。
保元の乱(1156年)である。
この戦いでは、源氏と平氏は入り乱れて戦っている。
敗れた崇徳上皇は讃岐の地へ配流され、この地で亡くなるまでしばしば金刀比羅宮を参拝したと伝わる。
亡くなった翌年の永万元年に金刀比羅宮の相殿に祀られた。
よって金刀比羅宮の祭神は大物主と崇徳天皇の二柱だ。
大物主は大国主命と同一人物。オオクニヌシと崇徳、どちらも祟り神といえる・・・。

府中町に鎮座する金比羅神社の境内に建つ石碑によると、文化7年(1810)三浦勘右衛門氏が創祀。
福山城主阿部伊勢守の家老代理の当所林新五郎が発起し社殿を建立。
そして天保の初め(1830)から日本一の石灯籠を着工し、天保12年に完成している。
その大きさは、神社誌には高さ三丈二尺三寸、笠石九尺三寸四方(一丈は十尺であるからその高さは約10m)と記されるが、現地石碑には高さ二十九尺四寸(約9m)、笠石は四畳半余と掘られている。
いずれが正解か?森本繁氏は「備後の歴史散歩(上)」の中で、福山阿部氏は第5代備中守正精と紹介している。
ここに祀られる祭神は大物主神、崇徳天皇と初代神武天皇も加わる。
明治8年に再建された本殿は三間社流造。
千鳥破風がそのまま前方に伸びて切妻造の向拝となる。
拝殿は中央が通路となる割拝殿形式だ。
石鳥居と日本一の石灯籠
拝殿
本殿
日本一の石灯籠

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