亀山八幡神社(かめやまはちまん) |
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神石高原町小畠 | |
亀山八幡神社(かめやまはちまん) 神石高原町小畠に鎮座する。
この八幡神社の祭神数はすごい。 主祭神として仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。相殿には59もの祭神が祀られる。 これは明治時代の神社合祀によるものである。 明治政府は国家神道に基づき国内総ての神社の保護政策をとった。 明治4年には伊勢神宮を頂点に、官幣大・中・小社、国幣大・中・小社、別格官弊社、県社、郷社、村社という新たな社格制度を作り、村社以下は無格社とした。 無格社も無格社という社格として保護した。 そして、明治40年からは村社以上には国や県市町村から社格に応じた神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)が出された。 これにより各神社は昇進を望み、地元選出の国会議員等に働きかけ、競うように昇格を目指した。 備後では明治4年に、鞆町沼名前神社が国幣小社に列格し、昭和3年になって新市備後一宮吉備津神社が県社から国幣小社に昇格した。 府中市出口町の甘南備神社も上申しており、昭和19年に国幣小社への昇格が決まっていたが、第2次世界大戦により日の目を見ることは出来なかった。 神社数は増えはするけど減らず国費はかさむ一方である。 そこで、明治政府は明治9年に老廃したり氏子数が激減した神社は最寄りの神社へ合祀するように発布した。 神社整理が本格化したのは明治39年になってからである。 この時は村社も合併の対象とされた。その結果、広島県内では、明治9年は1,000社以上が何処かに合祀され、本格化した明治39年から大正2年の7年間では2,784もの神社が合併廃止された。 特に神石郡では1,600社が合祀廃止となり、徹底的に合祀政策がとられた。 中でも油木町に鎮座する亀鶴山八幡神社は明治40年から43年にかけて、なんと218社を合併している。 この亀山八幡神社などはまだ少ない方である。 −−−参考 広島県神社誌−−− 亀山八幡神社は治暦(1065)元年8月、京都石清水八幡宮から勧請し当国8郡の鎮守とし創祀されたと伝わる古社である。 その後、元弘年間(南朝1331−4)桜山四郎入道が再建修造している。 桜山四郎入道は、「太平記」に、鎌倉時代末期元弘元年に後醍醐天皇が鎌倉倒幕を掲げ京都笠置山で挙兵した。 これに応じた楠木正成に呼応した桜山四郎入道も備後から参戦したが笠置山は落城し後醍醐天皇は隠岐に配流。 楠木正成も戦死したと伝えられたことから、桜山四郎入道は妻子や一族郎党23人とともに、備後吉備津神社に放火して自刃した。 その時、桜山の一族によりこの亀山八幡神社も社殿を焼かれている。 永正年中(1504−21)になると小畠九鬼城主馬屋原但馬守正国が再興している。 江戸時代には承応2年(1653)福山城主水野勝種が社殿を再建。 水野家が絶えると豊前国中津藩領となり元禄16年(1703)中津城主奥平大膳太夫が本殿を再建しこれが現存している。 明治40年には上記したように村内42社を合祀し、明治4年に村社に列格、明治10年には郷社に昇格した。 元禄16年に再建された本殿は三間社入母屋造で屋根正面に千鳥破風を飾り、向拝は軒唐破風を造る。 身舎の前方一間分は壁板が張られず吹き放ちの外陣となる。 これはこの地方に非常に多い。内陣は正規の円柱、外陣は角柱を使う。 内陣は長押を打ち、頭貫は外陣まで通る。 柱上は一手先の出三斗、柱間は蟇股を置く。軒は二軒繁垂木で、高欄付きの縁は四方を廻る。 外陣の垂木は極端に湾曲させている。 参道入り口の広島県指定天然記念物で推定樹齢300年の栂(ツガ)は樹高30mに達する。 |
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参道の石碑 | |
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石鳥居 | |
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木製の鳥居 | |
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随神門 | |
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本殿 | |
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昭和56年広島県指定天然記念物の栂(ツガ) | |
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地図 |