亀鶴山八幡神社(かめつるやまはちまん)
神石高原町油木
亀鶴山八幡神社(かめつるやまはちまん)神石高原町油木に鎮座する。

延喜2年(902)、社人佐伯宮内、東油木総代本田某、西油木総代大久保某が豊前に赴き、宇佐の八幡神を亀鶴山に勧請し創祀したと伝わる古社である。
かつては神宮寺も置かれた。
この神社の持つ境内地亀鶴山には吉備津神社も創建されているが、併せて三万坪を有する。
その社叢は広島県指定天然記念物。
また、社蔵の大般若教六百巻は応永7年(1374)から奉納を始めたものや刀剣、古代の武具、祭礼用具一式はいずれも県指定重要文化財である。
なお、明治 時代の神社合併政策により村内の217社を合併している。

○名称 紙本墨書大般若経
よみがな しほんぼくしょだいはんにゃきょう
指定 県指定
種別 重要文化財
種類 典籍
所在地 神石郡神石高原町
員数 514巻
指定年月日 昭和44年(1969)4月28日
構造形式 紙本墨書,折本
法量 縦27.5cm,横9.2cm
公開状況 非公開
【解説】
南北朝時代の応安6年(1373)5月頃から永和元年(1375)10月頃までの約2年をかけて完成し,永徳2年(1382)尾道持光寺に納めら れた経。
勧主(勧進元)は,すべて権少僧都阿闍梨(あじゃり)頼喜という僧で,願主は頼喜のほか武士,名主,庶民,僧侶などさまざまな階層の者38人を数 える。
写経場所は尾道浦の各寺院がほとんどだが,豊後(大分県)などの僧侶の名も見え,港町尾道の活況をも見ることができる。
この大般若経は,奥書の「尾道持光寺常住也」の文字や,これを納める唐櫃の朱書「永徳二年壬戌六月一日」「備後国尾道浦」により,尾道浦の共有として持光寺に置かれていたが,なんらかの経緯をえて,油木八幡神社に奉納されたものと思われる。

○名称 油木八幡の社叢
よみがな ゆきはちまんのしゃそう
指定 県指定
種別 天然記念物
所在地 神石郡神石高原町
指定年月日 昭和32年(1957)2月5日
【解説】
本社叢は,スギ・モミ・シラカシ・ホウノキ・イヌシデなどの樹種をもって構成され,この地方の原生林の景観を呈している。
胸高幹囲1m以上の木は 約750本の多きに達し,特にスギ,モミ,シラカシ,ヤマザクラ,ヤマモミジの県内有数の巨樹を含んでいる。
なお元弘年中(1331〜1334)に名和長 年(なわながとし)がその従者3名とともに千本の苗木を植樹したと由緒書に記されている。

○名称 油木八幡神社神札用具
よみがな ゆきはちまんじんじゃしんさつようぐ
版木93点
霊印18点
御洗米印3点
調整具5点
版木箱1点
指定 県指定
種別 有形民俗文化財
所在地 神石郡神石高原町
員数 120点
指定年月日 昭和50年(1975)4月8日
【解説】
油木八幡神社宮司家に保管されている神札製作のための版木,霊印,調整具などである。
この神札は,当社大祭用のものから,周辺の大小神社,小祠,私祭用のものなど多種多様である。
版木の用材の多くは桜木で,大は半紙大のものから,小は内符用の一寸未満のものがあり中でも十種神宝や三元加持の版木等は実にみごとな出来ばえである。
江戸時代から明治大正に至るまでの,氏神及び小祠の諸信仰または加持祈祷の性格を知るうえで貴重である。

以上、広島県の文化財より

本殿は享保12年(1727)に建立されたものが現存している。
三間社平入入母屋造で千鳥破風を持ち、向拝は軒唐破風である。
この近郊でよく見られる吹き放ちの外陣を持つ。
彩色された本殿は、外陣は角柱、内陣は円柱を使う。
長押を打ち頭貫で固定しさらに台輪を置く。
柱上は出三斗、柱間も出三斗を組 む詰め組となる。
各木鼻は象鼻彫刻が施され、欄間にも彫刻が施されている。妻飾りは虹梁大瓶束だ。付属社殿として祓殿、拝殿、御輿蔵、随神門、それと文政 元年(1818)建立の宝蔵、本殿と渡り廊下で接続された奥殿を有する。
参道入り口
随神門
宝暦7年の狛犬
本殿
奥殿
名和長年手植えと伝わる杉

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