御調八幡宮(みつぎはちまん)
三原市八幡町宮内
御調八幡宮(みつぎはちまんぐう) 三原市八幡町宮内に鎮座する。

日本全国に約四万社あるとされる八幡神社の総本社は大分県宇佐神宮だ。
宇佐に祭られた八幡神とは、第一に応神天皇、二番目は宗像三女神、三番目は神功皇后である。
奈良時代、神護景雲3年(769)に宇佐八幡宮神託事件が起こる。
これは、当時の女帝第48代称徳天皇(しょうとく)に対し、宇佐八幡宮が「次の皇位は道鏡に継がせよ」と神託したというのだ。
道鏡とは法相宗の僧で、独身だった称徳天皇との繋がりが深かったとされる。
第46代孝謙天皇(こうけん)は、藤原仲麻呂が推した淳仁天皇に皇位を譲り第47代を継承させ、自らは孝謙上皇となった。
その第47代淳仁天皇だが、実権は藤原仲麻呂と孝謙上皇の母の光明皇太后が握っていた。
しかし天平宝字4年(760)、光明皇太后が死ぬと実権は孝謙上皇へと移る。
これに不満をいだいた藤原仲麻呂は天平宝字8年(764)9月に挙兵し反乱を起こすが敗れ去る。
孝謙上皇は淳仁天皇を追放し、再び第48代称徳天皇となり重祚(ちょうそ)したのだ。
この独身女性の称徳天皇の病気を治したことが縁で天皇の寵愛を受けたのが道鏡だった。
宇佐八幡の神託の真意を確かめるべく法均尼(和気広虫)の派遣を求めたが、弟である和気清麻呂が宇佐に出向いた。
清麻呂は宇佐の真意を「道鏡ではなく名が繋がったものに継がせよ」と称徳天皇に報告した。
道鏡に継がせたかった称徳天皇は怒り、清麻呂を大隅国へ、姉の法均尼(和気広虫)はこの備後国へ配流処分となった。
御調八幡宮に残る「備後八幡宮大菩薩縁起」には「法均尼は平城京を発ち、瀬戸内海を船で進み備後柞原郷に着き、加羅河御廟に奉拝したのちに御調坂(三戸坂、みとさか)を越えた」とあり、御調の地で弟の和気清麻呂の復権を願い宇佐八幡神を勧請したのがこの神社の創祀とされ、宝亀8年(777)に藤原百川が封戸20戸を充てて社殿が創建された。
広島県での最古の八幡神社である。
平安から鎌倉時代には京都男山八幡宮(石清水)の別宮として広大な社地を持っていたことが記録に残り、この時代の全国でも屈指の八幡宮の大社であったことがわかる。
室町時代には足利氏の崇敬を受け、第8代征夷大将軍足利義政は木造彫刻の狛犬を奉納し、現在は国重文に指定されている。
福島正則はこの社地を没収してしまったが、福島改易後入封した浅野氏らの広島藩主により現在の社殿は造営されている。

社殿であるが、敷地は広い。
入り口には木製の鳥居が建つ。
石段の上には天保6年(1835)に建てられた楼門を見上げる。
この楼門は県内の神社では現存する唯一の江戸時代の作品だ。
正面の拝殿は桁行五間、梁間三間の入母屋造と大きい。
しかも、本殿には正式な円柱を使い、拝殿は簡略した角柱が使われるのが普通だが、ここの拝殿の柱は円柱が使われていた。
後方の本殿との間には幣殿が接続され、本殿とは渡り廊下で結ばれている。
寛政10年(1798)に建てられた本殿は桁行五間、梁間四間の巨大な平入り入母屋造で、正面に千鳥破風が付き、三間の向拝は軒唐破風が造られている。
本殿、拝殿、楼門屋根は昭和43年に銅板へ葺き替えられた。
正面に拝殿を見て右手には神楽殿が建つ。
この柱もすべて円柱が使われている。
本殿の左手には経蔵が建つ。
これは神仏習合した建物で、明治の神仏分離で徹底的に壊されたが、ここのは残った。
全国的にも大変珍しい。
桁行四間、梁間二間の宝形造で屋根は茅葺き。
ここの柱も円柱が使われ、建立年も元文四年(1739)と古いが茅葺きは最近葺き替えられたようで綺麗だった。
境内社には和気清麻呂を祀った和気神社も茅葺きの宝形造で建立は古そうだ、仁徳天皇を祀った若宮神社は三間社入母屋造で千鳥破風が付き、向拝は軒唐破風。立派な三間社入母屋造が小さく見える。
他にもすばらしい社殿が建ち並び、それら社殿を取り巻く社叢は広島県の天然記念物に指定されている。ゆっくりと歩いてみたい。
参道と木製の鳥居
拝殿
本殿
楼門
神楽殿

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