塩崎神社(しおざき) |
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福山市東深津町 | |
塩崎神社 福山市東深津町に鎮座する
戦国時代、中国地方で栄華を極めた毛利氏。 備後ではその先鋒を務めた杉原氏らが、福山や神辺などの領地に伝わる神社を守護神として再建修復、また新たに創建と積極的に努めたことは各神社の由緒が証明している。 しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は山口へ転封され、従来の支配地は没収された。 そして福島正則という人物が新たな支配者として入国してきたのである。 この時代から在地領主制は廃止され幕藩体制となった。 それまで大きく繁栄した神社には大壇那として歴代の領主らが名を連ね造営修復等を行ってきたが、この時代からは村の氏子が中心となって維持管理をせざるを得なくなった。 氏子のほとんどは農民で、厳しい年貢取り立てに追われ、その上で神社を修復するということは大変なことであったと思う。 そして福島正則は、それに輪を掛けるように神社に付けていた社領をことごとく没収していったのだ。 社領では小作人が米を作り、それが神社の収入となっていた。 それが没収され収入が無くなり、神社にとっては大変厳しい荒廃期を迎えた。 備後一宮でさえ同じ事だった。 広島城を幕府に無断で修理したことにより福島正則は改易された。 続く浅野氏でも同じ状況が続いたが、幸いにして我が備後地方だけは浅野氏の支配とはならず水野氏の支配下に置かれた。 備後に入封してきた水野勝成は、浅野氏とは異なり、街造りの一貫として荒れ果てていた神社仏閣の造営、再建、修復に力を入れて援助した。 このことがこの地に水野氏の手が入った社殿がかなり残っている大きな要因となっているし、また援助を受けた農民や領民にとってどんなにか嬉しく、生きていく上で励みになったか想像できる。 その一つ、寛永五年(1628年)に水野勝成が建てた、福山市の重要文化財に指定されている愛宕神社本殿は先に紹介した。 ここでは福山市東深津町に鎮座する塩崎神社を紹介する。 この本殿も愛宕神社と同様に覆屋内に収められていて普段は見ることは出来ない。 毎月一日に宮司さんが来られご開帳される。 そのことを知らずに月末に訪ねたのだが、たまたま塩崎神社代々神主家の女性が準備をされていて、幸運にも特別に上がらせて頂いき、ご本殿を目の当たりにすることが出来た。 広島県神社庁青年会が編纂した「広島県神社建築」によると、塩崎神社は正保三年(1646年)水野勝成が勧請し創建したとある。 勝成は、海であったこの地に堤防を築き埋め立てて新田開発事業を行ったが、度々堤防が崩れたという。 そこで海神である住吉三神を勧請し祈願したとされる。 この本殿が建立された年の特定は出来ないが正保三年とし、本殿両脇に吊された銅製の釣灯籠には正保五年の銘が確認できる。 本殿の間口は三尺(約90cm)と小社であるが、一間社入母屋造で妻入りという珍しい形式で、向唐破風向拝が付き、屋根は柿葺(こけらぶき)だ。 また木組みも素晴らしい。長方形をした社殿の入り口をどちら側に付けるかで「平入り」、「妻入り」と呼び方が異なる。 「平入り」は長方形の広い辺に入り口を付けた(棟に平行)形をいい、「妻入り」は狭い辺から入る(棟に直角)形式を言う。 この本殿は妻入り形式であるから、一見唐破風の上に千鳥破風が付いているように見えるが、よく見ると千鳥破風ではなく入母屋屋根の妻部分の三角が正面に見えているのだ。 愛宕神社の本殿も独特の建築様式であったが、こちらのも素晴らしく優劣は付けることは出来ない。 しかし建立年が愛宕の方が18年ほど古い。 それが市重文指定の理由だと思った。 |
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社殿全景 | |
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拝殿(平入り) | |
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本殿と間違うだろう立派な覆屋(妻入り) | |
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本殿 | |
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地図 |