聰敏神社(そうびん) |
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茨城県結城市本町 | |
茨城県結城市本町 城址公園内に鎮座する 境内の石碑には「この聰敏神社は文化十三年(1816)、当時の結城藩十二代城主・水野勝愛公が初代勝成公の遺徳を慕び、今の広島県福山市の聰敏神社より勧請(神仏の来臨を請い分霊を移し祀ること)し建立された」とありました。 福山の聰敏神社については調べる書籍によって微妙に説明が異なるため確かなことは分からないのですが、そもそもは二代藩主・勝俊が徳霊社と称して福山城天守閣内に祀ったのが始めで、天和三年(1683)に四代藩主・勝種が勝成明神として城内に移転。 しかし阿部家の時代になって城内では持て余すようになり現在の場所に移したのが享保五年(1720)。 阿部家から保護されないために社殿が荒廃するのを憂慮した医師・馬屋原玄益が自身の祖父が水野家家臣だった縁をもって水野家旧臣と図って新しい社殿を造営、聰敏神社と改称したのが明和四年(1767)ということのようです。 平井隆夫著「福山開祖・水野勝成」によると、馬屋原玄益は水野宗家の名跡を継いだ結城水野家に願書を送り、結城水野家が京都吉田家に願う形で新たな神号を受けたとのこと。ちなみに「聰敏」は京都大徳寺の宗立和尚がかつて勝成のことを「聡明俊敏」と讃えたことに由来するそうです。 文化十年(1813)、阿部家の先祖を祀る阿部神社落成のお祝いが盛大に行われました。 しかし阿部家から冷遇された聰敏神社は馬屋原玄益たちの尽力も空しくその後も荒廃する一方でした。 この状況を憂えた修験者の牛海という者が「そうびんの乱れしかみをゆはずしてばんこ頭を勇鷹神とは」という落首を詠んだそうです。 (中山善照著「水と焔 水野勝成」より)そうびん(聡鬢)は頭髪のことで聰敏神社と掛けています。 また乱れし髪は乱れし神で聰敏神社の荒廃を指しています。 そしてばんこ(番子)は商家の小間使いのことでここでは藩主・阿部候を指しています。 さらに勇鷹(ゆうおう)とは阿部神社の昔の名称で結おうと掛けてあります。 つまりこの落首は「土台が乱れているのを忘れて格好だけ付けようとしているとは笑止千万」という意味から転じて「福山のルーツが何だったか忘れちゃいませんか?」という痛烈な皮肉になっています。 ちなみに前出の平井隆夫著「福山開祖・水野勝成」ではこの落首を阿部家家臣で国学者の松本良遠が詠んだことになっていますが、松本良遠が生まれたのは阿部神社が完成した翌年の文化十一年(1814)ですから、ただ単に巷間の出来事を記録しただけなのかも知れませんね。 そして現在、聰敏神社は遠く離れた福山と結城に残っていますが、阿部神社の名前は福山から消えてしまいました。 これも歴史の皮肉でしょうか? |
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石鳥居 | |
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本殿 | |
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地図 |