式内社 備後国品治郡 「多理比理神社(たりひり)」
福山市駅家町上山守 当島八幡神社境内
 今、「備後」は当たり前に「びんご」と読むが、平安時代の承平年間 (931年−938年)に作られた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると「備後国」の読み方は「きびのみちのしりのくに」らしい・・・。
そして都市は、延喜式では安那郡(やすな)、深津郡(ふかつ)、神石郡(かめし)、奴可郡(ぬか)、沼隈郡(ぬまくま)、品治郡(ほんじ)、葦田郡(あしだ)、甲奴郡(こうぬ)、三上郡(みかみ)、恵蘇郡(えそ)、御調郡(みつぎ)、世羅郡(せら)、三谿郡(みたに)、三次郡(みよし)の十四郡とされ、そしてこの十四郡内に安那郡二座「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」「天別豊姫神社」、深津郡一座「須佐能袁能神社」、奴可郡一座「迩比都賣神社」、沼隈郡三座「高諸神社」「沼名前神社」「比古佐須伎神社」、品治郡一座「多理比理神社」、葦田郡二座「賀武奈備神社」「國高依彦神社」、甲奴郡一座「意加美神社」、三上郡一座「蘇羅比古神社」、恵蘇郡一座「多加意加美神社」、御調郡一座「加羅加波神社」、世羅郡一座「和理比賣神社」、三谿郡一座「知波夜比古神社」、三次郡一座「知波夜比賣神社」・・・合計で十七座の神社が記載された。
大体各郡に一座ずつだが、沼隈の三座、安那、葦田の各二座は多いと思う。
特に瀬戸内海に面した沼隈郡は神武天皇、神功皇后などの伝承に見られるように経済的、政治的、軍事的、全てで重要なポイントだったことが伺える。
葦田郡には国府が置かれ、安那郡には国分寺が建てられた。
式内社はそれぞれの地の中心で、しかももっとも重要な役割が課せられていたのだろう。
それが時代が移り変わるにつれて、いつの頃からか重責から解かれ、肩の荷が下り、ほっと息が抜けるように多くの式内社達はその所在も息づかいもわからなくなっていった。
存在は古文書に書かれているのみである。もっとも国府も国分寺も国分尼寺も同じだ。

 「多理比理神社」も悲しいかな例に漏れず、長い歴史の中で所在がわからなくなった式内社の一つだ。
面白いのは「我が社が多理比理だ」と主張する論社が二つあり、それぞれが式内社の石柱を立てているばかりか、一つはお社まで存在する。
しかも、その二つの神社の神主さんは同一人物だから興味は尽きない。

 まず一つ、福山市駅家町上山守に鎮座する「當島八幡神社」境内に写真の石柱が建てられているが「多理比理神社」は小丸山に鎮座していたが老廃したので延元元年(南朝元号で1336年)にこの地へ遷座したというもの。
當島八幡神社は大同二年(807年)に姫居山に建立されたが延元元年に現在地に遷座したと云われている。したがって、この二つの神社は同時に現在地へ遷座し合祀させたと思われる。

 これに対し二つ目の考え方は「多理比理神社」は品治郡服部村大字服部本郷神子原(みこばら)に鎮座していたが老廃したので備後一宮吉備津神社への境内に移されたというもの。
これを裏付けるように吉備津神社には「太理比大明神」と描かれた古い金幣の御串が存在している。

 んーん・・・、正解はどちらだろうか?皇學館大学がまとめた「式内社調査報告」では結論が出ず「後考を待ちたい」と結んでいる。
志賀剛氏の「式内社の研究」では「古い金幣の御串がそこにあったからと言って合祀したとは考えられない。ましてや相手が本国一宮だからなおさらのこと」と否定している意見を支持したいとされている。吉備津神社から、この服部本郷はあまりに遠すぎる。
自転車もなければ歩いていくしか手段の無い時代に山また山を遙かに越えて遷座さすのは無理である。
一方「當島八幡神社」説は、この地が当時の品治郡の中心地でもあり「こちらの説に賛するものである」と結んでいる。
「駅家今昔」の著者井上新一氏もその本文中で「當島八幡神社」説に賛成している。

吉備津神社の境内には社殿も建てられ、式内社の石柱も新調されている。
當島八幡神社境内に建てられている「式内社」の石柱
吉備津神社境内に建てられている「式内社」の石柱
當島八幡神社由緒書き

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