渡守神社(わたすもり)
福山市鞆町、沼名前神社境内
渡守神社(わたすもり) 福山市鞆町、沼名前神社境内に鎮座する。

 現在では沼名前神社の摂社となっているために広島県神社誌への記載はないが、本殿建立年の貞享2年(1685)再建は棟札により確実で、縁起もさることながら建築様式も貞享以前の形式が見られる存在価値の非常に高い本殿が現存しているのでここで紹介したいと思う。
昭和43年に古西武彦氏が著された「福山の古建築」には、棟札の内容が次のように記されている。
「神功皇后が三韓征討の折り鞆の浦に仮泊し和多須の地に舟玉神を祀り渡守大明神と号す、年を経て承応二年(1653)に水野家二代勝重夫人の祈願で社殿を修造する、それより後社殿が頽廃したので鞆奉行生原忠知をして再建させた、時に貞享二年(1685)であった」さらに古西氏は、「元は別の地に鎮座していたが慶長4年8月2日の大火により焼失したので貞享2年に水野勝貞が現在地に遷座させ、本殿と拝殿を新築した。
拝殿はすでに失われたが本殿は今日に伝えている」と記されている。
一方、平成14年、広島県青年神職会が編纂し、三浦正幸広島大学教授が監修し発行された「広島県の神社建築」には「貞享2年、水野勝貞が現在の地に移し本殿と拝殿を新築した。
拝殿はすでに失われたが本殿は残っている」と記されている。
ここで問題は貞享2年と水野勝貞の時代考証だ。水野勝貞は第3代の福山城主で、寛永2年6月28日(1625年8月1日)に生まれ、寛文2年10月29日(1662年12月9日)に没している。
貞享2年(1685)にはすでに亡くなっているのだ。
貞享2年の城主に当たるのは第4代水野勝種ということになる。
以下、三浦教授による建築様式の解説を引用する。

 構造形式は三間社流造、屋根は銅板葺、三方に高欄付きの廻縁(まわりえん)、奥に脇障子(わきしょうじ)を備える。
身舎(もや)正面三間は蔀(しとみ)を吊り、両側面と背面は横板羽目(よこいたはめ)、柱は円柱(まるばしら)で、頭貫(かしらぬき)の端は木鼻(きばな)を飾る。
組物(くみもの)は平三斗(ひらみつど)で、妻面は古式に虹梁(こうりょう)上に豕扠首(いのこさす)を組む。
庇(ひさし)は角柱二本を立て、柱間三間を持ち放して虹梁を渡し、中央に本蟇股(ほんかえるまた)を備え、その両脇には蓑束(みのづか)を置く。庇の両端には緩い曲線の海老虹梁(えびこうりょう)を渡して身舎と繋ぐ。
庇は吹放ち(ふきはなち)の外陣(げじん)となっている。
貞享2年の棟札が残っており、小型の本殿であるが、各部の意匠が優美で、江戸時代初期の風格を備えている。

 さて、貞享2年の水野勝貞再建は、昭和43年に古西氏が誤記をし、三浦教授もそれにならったものと思われる。
棟札には上記の縁起に続き「奉行 生原勘弥左衛門忠知」「神主 野島初太夫重長」「大匠 中島孫左衛門吉次」「同 信田市右衛門正次」と記される。

 得能正通氏は備後史談に書かれた「備後国延喜式内社巡拝記(十七)沼名前神社」の中で広島県史(大正12年版)を引用し「渡明神といへり、初は西町にありしか、慶長4年火災の後、後地村麻谷巽へ移し、貞享2年、水野家にて再築の時、さらに草谷に移し・・・」と記す。
鞆浦志は渡守大明神として「往古はわたす札の辻に鎮座也、その後、福島正則の時当浦町割ありし麻谷へ遷座。
また、貞享年中、今の宮所に鎮座也・・・明暦年中、水野勝貞再興なり」備陽六郡志は「水野勝貞公、明暦年中の奉行中村市右衛門に命して再興し給う」

 明暦年中は1655〜1658で勝貞の時代に当たる。
棟札に記された「承応2年(1653)に水野家二代勝重夫人の祈願で社殿を修造する・・・」か、それとも「明暦年中(1655〜1658)、水野勝貞再興なり」なのか、私の持つ資料では判断が出来ない。
また、貞享2年の棟札をとるならば、それには願主が記されていない。
城主が願主であればその名は必ず棟札に記すはずと私は思う。
願主が誰にせよこの現存するという貞享2年の棟札により、この時に再建された本殿は沼名前神社の境内に今も建っている。
渡守神社
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